太陽を描写する難しさ
前回に引き続き、撮影旅行中の北海道で原稿を書いている。
近年、アマチュアの撮影ツアーでも北極圏や南米など、地球の裏側まで出かける話を聞く。
北海道ぐらいだと、個展の解説に「極寒の大地から~」などと書かれると、大げさな表現にちょっと恥ずかしい。
旅行もそろそろ一ヶ月になるが、驚くようなエピソードはなく、天候などの条件を受け入れながら、淡々と過ごしている。
ずっと車内泊を続けているから時間は自由だが、朝は5時起床、夜は8時には就寝だ。
ほとんどの場所でインターネットにつながるようになったから、気象や交通の情報にも不自由しない。
意外と地味な撮影旅行だが、年末の釧路でいつものように大地から朝日が昇るのを見ていると、
ちょうど反対側の地平線をに、ほぼ満月の大きな月が沈もうとしていた。
初日の出ではないが、空が明るくなり満月が沈むというのはなんだかありがたい体験だった。
そして、そのときに改めて確認したことがある。写真に撮ると、月と太陽は同じ大きさに写る。
つまり、地球上で見える月と太陽は、ほぼ同じ大きさだということだ。
(厳密に言えば月の大きさは軌道によりわずかに変化する)
これは、それぞれの大きさと位置関係による偶然というのも興味深い。
太陽が写っている写真というと、夕日や日の出を思い浮かべる人が多いかもしれないが、
逆光で撮影することの多い自分の作品では、天空で発光する星としても、太陽を描くことがある。
そして、太陽や月に対して山並みや木々を配置して、構図を決めている。
そんな時、自分の感覚に基づいて太陽を表現することは意外と難しく、
写真を学び始めたころからの大きな課題だ。
太陽を描写することはなぜ難しいのか?
もちろん昼間の太陽はまぶしく輝き、明るすぎて滲んだり、真っ白くなって写らないということがある。
しかし現在のデジタルカメラなら、普通に撮影しても、太陽の輪郭がはっきりと描写される機種もある。
もちろん、私の使用するフィルムカメラでも、科学的に解析すれば、輪郭そのものを表現することは難しくない。
むしろ、表現を難しくしているのは、人間の錯視によるさまざまな見え方の違いではないだろうか。
単純な例として、日没時など比較物のあるときはとても大きく見えるのに、
実際は昼間と同じ大きさで、写真に撮るとあまりにも小さく写ってしまう。
光学的な視覚と、心理的な受け止められ方の間に、さまざまなギャップがある。
それらを踏まえて、最良の構図、明暗を組み立てなければ、思うような表現にはたどり着けない。
今回のイメージも野付半島。日の出から数時間後の太陽だ。
滲みのない輪郭の周りにわずかなコロナ、ゴーストの空気感、
地上の氷の反射を画面の中で最も明るく仕上げてある。